左甚五郎とは

日光東照宮 眠り猫

日光東照宮の「眠り猫」、上野東照宮の「昇龍」「降龍」、京都知恩院の鶯張りの長廊下や「わすれ傘」など、日本各地に数々の名品を残した彫刻師。

実在していた人物か否かに関しても定かでなく、織田信長の時代から江戸後期に至るため、名工の代名詞として「左甚五郎」の名が使われていたのだろうというのが定説になっています。


京都知恩院
甚五郎の忘れ傘

播磨の国明石で足利家家臣の伊丹家に生まれ、父親が早世したため飛騨高山の叔父の家で12歳まで過ごした後、京都の伏見禁裏大工 遊左法橋与平次の弟子になります。

25歳の時に江戸へ下り、将軍家の宮大工 甲良宗広の女婿となって堂宮大工として活躍をしたという資料が残り、時代的には二代将軍秀忠から三代家光の頃ですので、この頃の甚五郎が最も腕が良かったということでしょう。


「左」の名については、左官という官位をもらったから、幼少期を過ごした飛騨から「飛騨の甚五郎」と名乗ったのが変化した、左利きであったから、腕を妬まれて右腕を切り落とされたため左手で彫刻をしていたからなど諸説あります。

落語に登場する左甚五郎と名工たちの噺

左甚五郎は落語ではあまりよい人物には描かれていないことが多く、大酒飲みで気ままな皮肉屋といったキャラクターです。

ストーリー的には最後になって正体がわかって皆が平伏したり賞賛したりという、いわゆる水戸黄門型で、こういうある意味スカッとする噺が好きな方にはおすすめ。似たところでは『抜け雀』や、黄門様が登場する『雁風呂』もあります。

一方で、高名な父親の跡を継いだ下手な息子が名工になるまでを描く『浜野矩随(はまののりゆき)』や、腰元彫りの名人、橫谷宗珉の弟子宗三郎の苦心談『宋珉の滝(そうみんのたき)』などは、人情噺の部類で少し気持ちを高めたい時やほっとしたい時に聴くとよいです。

では、左甚五郎の名工譚 ごゆっくりお楽しみください。

竹の水仙


この噺を聴き比べ(桂歌丸・柳家小さん・京山幸枝若)
京都の宮大工として押しも押されもしない名工と呼ばれる左甚五郎。

 

ある日、三井越後屋より大黒の製作を依頼されます。

代金を百両と決めて手付に三十両をもらい、いつ頃できるかわからないので出来れば知らせると言って使いを帰します。

京も飽きたので江戸へでも行ってみるかと東へ。あっちで遊びこっちに寄り道をして一文無しで神奈川の宿に入ります。

三井の大黒


この噺を聴き比べ(三遊亭圓生・桂三木助・柳家三之助)
江戸に到着した甚五郎は、今川橋で大工の仕事をけなしたことから袋だたきに合い、止めに入った棟梁の政五郎の家で世話になります。

 

板を削らせると二つの板がぴったりとくっついて離れないほどの仕事だが、丁寧すぎて間に合わない。

ねずみ


この噺を聴き比べ(立川志の輔・柳家さん喬・桂歌丸)
仙台の宿。江戸から来た男が子供に呼び止められ、仙台で一番小さな宿屋「ねずみ屋」というところに泊まることになります。

 

腰の立たない父親が、もとは向いにある仙台で一番大きな「虎屋」の主で、後添いと番頭に店をとられたと聞いた男は、何か彫ってあげようと言って屋号にちなんだ小さなねずみを彫り上げて去っていきます。

叩き蟹


この噺を聴きく(三遊亭圓窓)
日本橋近くの餅屋で何やら騒ぎが起こっているのを聞きつけた旅人。
餅屋が餅を盗もうとした子供をつかまえて折檻しようとしているという。

 

親のふりをして前に出て、子供の話を聞きますと、親は大工だが仕事場で怪我をしてそこから毒が入って身体が動かなくなってしまい、母親は産後の肥立ちが悪く寝たきりになっていると言います。

四目屋

こちらはバレ噺で、艶笑落語やマクラや艶笑小噺のひとつとして、ごくたまに耳にします。

“良家の娘は年頃になると武家屋敷に奉公して行儀見習いをするのが習い。武家の奥は男子禁制で年頃の娘は我慢できない。これを当て込んで四目屋(薬研堀、米沢町二丁目にあった媚薬・秘具の専門店)が屋敷に行商に来ます。

最初は小さいモノを見せ「もう少し大きなのを・・」と順に大きなものを見せていくのがうまく売るコツだったそう。

ある良家のお嬢さんが武家奉公にあがり、体の具合が悪いと実家へ帰ってきます。医者に見せると妊娠していると言う。

母親が、「相手は誰だ」と娘を問い詰めますが娘は「相手はいません。」と言う。

娘の手文庫に手紙でも入っていないかと調べてみると、張り型が出てきた。「これで赤ちゃんができるかね」と裏返して見ると『甚五郎作』”

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