武助馬~立川談志・瀧川鯉昇






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この噺で江戸落語の祖が流刑に

武助馬~立川談志

武助が元の主人のところに久しぶりに顔を出します。主人が「うちを出てからどうしていた?」と聞きますと、「八百屋をやってみたが手が荒れてやめた。魚屋もやったがタコが嫌いでやめた。貸し本屋もやったが字が読めないのでダメだった」

それなら好きなことをやろうと、上方に行って嵐璃寛に弟子入りをして役者になり、”蜜柑”という名前をもらって三年、初めて『忠臣蔵五段目』の猪の役をもらって褒められた。その後三ヶ月くらい経って今度は『菅原伝授手習鑑』の牛の役をもらったという。

上方から江戸に出て、中村芝翫の弟子になって今はその下でやっている。この度新富座に出ることになったので見に来てほしいと言います。今度は何をやるのかと聞きますと、演目は『一ノ谷嫩軍記』。役は馬の後ろ足だという。

主人はがっかりしますが祝儀代わりに行ってやると約束します。主人は馬だから花道がいいだろうと席を買い占めて、店の者や出入りの者も連れて新富座へやってきます。親方も席が売れて喜び、武助も一生懸命練習をしています。

出番が近づきますが、前足をやる熊衛門がいない。探すと一杯飲んで寝ています。しっかりしろと前後で馬をかぶりますと熊衛門は大きなおなら。後ろ足の武助は匂いがきてたまったもんじゃない。さていよいよ馬の出番。皆で「日本一!」「武助馬!」と声をかけます。

覚書

この噺の元を作ったのが元禄時代の落語作家兼落語家で、江戸落語の祖と言われる鹿野武左衛門。

『鹿の巻筆』貞享三年刊(1686年)の中の『堺町馬のかほみせ』という小咄で、「馬の後足!」と褒めると、後ろ足が「イイン イイン」といなないたというものでした。

この出版から七年後の元禄六年(1693)。江戸でコロリ(コレラ)が流行して一万余人の人々が亡くなります。その頃、ある所の馬が「南天の実と梅干しを煎じて飲めばコロリにかからない」と人間の言葉で喋った。これは神のお告げてあるというデマが広がり、南天の実と梅干の値が二十倍、三十倍と高騰するとともに『梅干まじないの書』という冊子が飛ぶように売れます。

時の奉行が江戸市中へ触書きを出してデマを押さえるとともに調査をしたところ、浪人の筑紫団右衛門と八百屋の惣右衛門の二人が鹿野武左衛門のこの話に発想を得て南天と梅干しの高騰を目論み、さらに『梅干まじないの書』の出版をして荒稼ぎをしていたことがわかります。

主犯の筑紫団右衛門は江戸市中引廻しの上斬首、従犯の八百屋惣右衛門は流刑とここまでは順当ですが、鹿野武左衛門まで伊豆大島へ遠島、『鹿の巻筆』は焼かれ、出版元の本屋弥吉も江戸追放になります。

とんだとばっちりですが、実は武左衛門が『梅干まじないの書』の執筆をしたのではないかという説や、実は武左衛は遠島にはならなかったのではないか、という話もありますが、流人帳や赦免を記したものがこの時代にはまだなかったため真偽のほどはわかりません。

しかし、いずれにせよこの事件を機に鹿野武左衛門は表舞台から消え、以後七十年に渡って江戸落語は衰退していくことになります。

武助馬~瀧川鯉昇

落語 武助馬 ディスコグラフィー

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