帯久~桂米朝・三遊亭圓生・立川志の輔・三遊亭圓窓【動画】



「売れず屋」と呼ばれた帯屋久七に、和泉屋与兵衛が金を貸したことから

桂米朝~帯久

大坂の島之内、現在も大阪市中央区島之内と言っておりますが、
北が長堀、南が道頓堀、東横堀、西横堀の四つの堀に囲まれて島になっておりましたので、島之内と言いました。

この中を北から順に一丁目、二丁目と六つの町があり、二丁目に帯屋久七、三丁目に和泉屋与兵衛という呉服屋があり、三丁目の和泉屋はたいそう繁盛していましたが、二丁目の帯屋は「売れず屋」と言われるくらい閑散としております。

年末のある日、帯屋久七が和泉屋与兵衛を訪ねてきて節季の払いのやりくりがつかず、二十両貸してほしいと頼みに来ます。

節季というのは売掛の集金、買掛の払いのことで、その昔は支払いは年に二回(六月と十二月の大晦日)だけでしたが、あまりに長いというのでこの頃は「中払い」と言って三月と九月にも掛け取りをするようになっていました。

和泉屋与兵衛は、証文も利子も取らず快くお金を渡し、お酒を飲ませて帰します。
二十日ほどで帯屋はこの金を返すしますが、次の三月の中払いには三十両、六月の節季に五十両と借り、その都度二十日ほどで返しに来ます。

九月の中払い前、帯屋は百両貸してくれと頼みに来ます。
和泉屋は快く貸しますが、今度は十月になっても十一月になっても返しにきません。

年末の大晦日、和泉屋は目も回る忙しさで、与兵衛も蔵屋敷や大名の相手で大変忙しくしているところへ帯屋がお金を返しに来ます。

金を受け取り、また春永(はるなが 年が明けてからという意味)にゆっくりお話ししましょうと言っているところに役人がお帰りになるという知らせで、百両をその場に置いたまま、帯屋を残して部屋を出ます。

残った帯屋、その百両を懐に入れてその場を去ります。

さて、ここからがこの噺の本筋になりますが、実際にお聴きになって事の顛末をご確認ください。

噺の中で「銭龜の火事」という大きな火事が出てまいりますが、「摂陽奇観(浜松歌国著)」という書物に、宝暦七年(1758年)に瓦屋町から東へ大きく燃え広がったものとあります。
宝暦と言えば三代将軍徳川吉宗の時代で、この噺の時代は江戸末期あたりかと思いますがそのあたりは鷹揚でよろしいかと思います。

また、最後に奉行が出てきますが、上方では松平大隅守、江戸では名奉行大岡越前守ということになります。
米朝の演じる奉行は「鹿政談」なども含め、その厳格さや迫力には圧倒されます。私も大好きな場面です。

三遊亭圓生~帯久


江戸落語では、享保五年(1720)の春、日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があり、
という設定で噺が始まります。

金を借りるのも三月に二十両、五月に三十両、七月に五十両、九月に七十両、十一月に百両となります。

火事は、享保六年十二月十日の神田三河町の大火となっており、
これは八代将軍吉宗の頃ですので、奉行の大岡越前守と時代もピタリと合っています。

立川志の輔~帯久


「この噺はあまり演る人がいないんですね。おもしろくないから」というマクラがあり、実際、笑いも無い噺ですが、変化のある物語で時代劇を観ている気分になります。

和泉屋与兵衛の隆盛の頃と零落してもその頃の旦那ぶりが出る演じ分け、何より奉行の貫禄が出ないとのっぺりとした噺になってしまいますが・・。

三遊亭圓窓~帯久


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